基礎体温

思索の試作。嗜好の思考。

iPhoneがなくてもいいかと思ったが

iPhoneがとうとう壊れた。ずっと画面が割れまくっていたのだが、新しいiPhoneに興味が持てず、買い換えを見送っているうちにどんどん破損がひどくなっていき、もはや表面に穴が開いているような状況になってきた。防水加工なのに水に入れると画面がおかしなことになってくるようにもなり、いよいよやばいなと思っていたらとうとう画面の右3分の1が写らなくなり、画面もタップできなくなったためパスコードが入れられなくなった。

ついにiPhoneが使えなくなり、たまにはスマホがない暮らしもいいかと思ったものの、通勤定期もiPhoneに入れているので通勤の度に余計な出費が出てきて困ったことになった。iPadを持っているのでほかの機能はある程度これで代用できたものの、待ち合わせのやりとりLINEをiPadでやらねばならず、駅構内をiPadを操作しながらうろうろするなどなかなか不便さを感じることも増えてきた。くやしいが、スマートフォンがないと生活が不便になる事態に陥っていることを痛感した。

どうせならスマートフォンを買い換えようか、いよいよAppleから離れPixelにでもしようかと画策したが、すでにアップル帝国に毒されているためiPhoneがないといろいろと不都合が出てくることに改めて気づかされた。iPhoneがないとApple WatchAir Podsの存在意義が相当なくなるし、iCloudに同期しないことの面倒くささを考えるだけで、もうiPhoneのままでいいやとなってしまった。

最新のiPhoneに買い換えようかとも思ったが、どうもX以降のiPhoneが好きになれない。何度もショップに行って実機をいじってみたが、どうしてもこれをわざわざ持ちたいという気にならない。おそらく機能云々ではなく形の問題なのだろうと思う。手に持ったときにテンションが上がらないのだ。これは多分に好みの問題である。もしこれが4sのようなフォルムだったら即買い換えているだろう。

ところで形ということでいえば、このたび新しく出たiPad ProをたまたまApple Storeで触ってみたところ、この形が気に入り急激に欲しくなった。Apple PencilがやっとまともなかたちでiPadにくっつき充電ができるようになったことも大きいが、そのことと同等かあるいはそれ以上に新しいiPad Proの形が気に入った。私は側面が丸いものよりも角張ったものの方がどうも好きなようである。

結局、iPhoneを新型に変えることはやめ、画面の修理を行うことにした。Apple Careが期限切れになっていたので税込で18000円くらいかかったが、それでもこの7のままでいいのだ。また、4sのような形のiPhoneが出てくれることをひそかに待ちたいと思う。

手書きとキーボードの違い

手書きとキーボードは違う。何も手書きの方があたたかさを感じるとか、そういうことを言っているわけではない。手書きかキーボードかで、出てくる文章が違ってくるということを言いたいのだ。

ある日、思い切ってモンブランの万年筆を買った。これまでペリカンを愛用していたが、それはF(細字)だったのでモンブランはM(中字)にした。その分余計に文章を書こうという気になっている。太いと書きやすいのだ。(ただし、インクの減りは実に早い)

同じ内容(テーマ)を書こうとしてもそれが手書きなのかキーボードで打つのかで、出てくる言葉、文体が変わってくる。これは文章というものがいかに手癖に影響されるものなのか、多分に身体的なものであることを示している。書くのとしゃべるのとでは出てくる言葉が違ってくるのと同じことである。

手書きで書きなぐった文章をキーボードで打ち直すとそのことがよく分かる。もちろん同じ人間がやっていることなので大体は同じなのだが、細かな言葉遣い、言い回しや読点の位置なんかがキーボードで打ち直す際に多少の変更を加えられる。清書しているというよりは、出すお店に合わせて商品パッケージを変えているような感じに近いかもしれない。

また、手書きとキーボードのもう1つの違いは「起動」性にある。書き始めるまでの動きが当然ながら異なり、それがいつ書くか、何を書くかの違いにもなり得る。

キーボードの場合、MacポメラiPhoneかというデバイスの問題がまずあり、次にEvernoteかメモ帳かUlyseesかDayoneかなどといったアプリ選択の問題がある。いい加減統一しろとも思うのだが、気分に応じて使い分けたくなってしまう。

このデバイスとアプリ選択の問題と、それを起動するまでのわずかな時間が大きな要素で、このために今はやめよう、また今度にしようという思考を導くことがある。その点、デバイスの中でもポメラは起動も早いし、文章を書くことしかできないので考える隙を与えられず、文章を書くときには良いデバイスだと思う。

手書きの場合、どのノートに書くかという問題はあるが、書こうとなったら起動は早い。紙とペンを出すだけである。それゆえちょっとしたタイミングですぐ書き出せる。この起動性の高さは当たり前といえば当たり前のことなのだが、様々なデジタルデバイスを使う今となってはわりと再発見に近い感覚である。

難点は万年筆の場合、インク切れに注意しなければならない点だろう。先述の通りM(中字)はインクの消費が早いので、まめにインクを注入しておく必要がある。いざというときのためにもう1本ペリカンも持ち歩くようにしているが、中字と細字という違いもあるし、やはりペンのバランスなんかも違うので、これはこれで文体に微妙な違いが生じてきそうだ。よく万年筆好きが複数の万年筆を使い分けたりしているが、少しあの心境が理解できる気がする。単なる気分の問題、趣味の問題以上に、実務的な問題のように思える。彫刻家が彫刻刀を使い分けるときのように。この問題についてはいずれ考察したい。

もう1つ。手書きとキーボードの違いに関する重要なポイントとして文字変換というテーマもありそうだが、これも奥が深そうなので改めて書くことにしたい。

コーヒー一杯でも酔えるのです

公園には幼子を連れた若夫婦や愛犬と散歩する中年でいっぱいです。 みな幸せのかけらをおすそわけのようにこぼしていきます。 新緑の季節です。 足りないものも過剰なものもありません。 ぼくはというと、この生ぬるいそよ風に当たりながら 古ぼけたベンチでやけに小難しい本を読もうとしているのです。 孤独こそがおのれを鍛え上げるただ一つの手段であるかのように 書き記された言葉が手で触ることのできる物体であることに気づきながら こんな時はコーヒー一杯でも酔えるのです。

携帯の電源なんて切ってしまえ

単なる言い訳に過ぎないが、日々時間がないと思う。読みたい本・読まなければならない本、書きたいこと・書かなくてはならないことに比べて時間が圧倒的に足りない。もちろんこれが単なる言い訳に過ぎないことはよく理解している。読める人は多忙な中でも、いつ読んでいるのかと思うくらいたくさんの本を読んでいるからだ。

決して時間がないわけではない。時間の使い方は下手なだけである。では何に時間をとられているのかというとよくわからない。最近テレビもあまり見ておらず、録画した番組が溜まっていく一方だ。仕事以外で言うとこれといって思い当たるものがない気がする。飲み屋に行くことも一時期に比べてだいぶ減ったし。これでは何に使っているか分からないがお金が貯まらない人と同じである。

お金の場合、大きな買い物はしないけれど、ちょっとした出費や贅沢をこつこつと積み重ねていることが多い。一つ一つは小さな出費なので気にならないが、1ヶ月もすると数万円の差になっているというやつだ。

おそらく時間に関しても同様のことが言えるのではないか。そう考えると思い当たるのはスマートフォンしかあり得ない。正確に計測したことがないが、2、3分や5分くらいのメールチェックやSNSチェック、ニュースチェックを積み重ねると、おそらく毎日1~2時間くらいにはなっているのではないだろうか。もちろんそこから得られる情報も重要なことがあるので、一概に無駄な時間とばかりは言えないが、目的もなくスマホを見ることが常態化しているため、そりゃあ本も読まなくなるわ、という感じだ。

この気づきは今に始まったことではなく、これまで何度もくり返していることでもある。ダイエットと一緒で続けるのが困難なだけなのだ。

かつて思いあまってスマートフォンをやめようかと思ったこともあった。さすがに電話がないと不便なのでガラケーに戻そうかと思い、いろいろ調べたのだが、どうしても仕事上見ないといけないアプリもあって断念した。今ではガラケーそっくりスマートフォンも出ておりだいぶ気になって調べたことがあったが、実際のところどうなのだろう。でも結局、ガラケー時代を思い出すと、あの頃はあの頃でケータイばっかり見ていたので、ガラケーに戻すだけでは意味がなさそうだ。

こうなったら見る時間・タイミングを限定するしかなかろう。普段は電源を切った状態にして、見るタイミングだけささっとチェックしてまた電源を切る。電源を付けたり切ったりするのが面倒だが、そのくらいの荒療治もいいのではないか。テレビと一緒で、付けっぱなしだとだらだら見てしまうので、見たい番組だけ見たらスイッチを切ってしまうのだ。 とここまで考えて、そういえばこういう時のためのアプリがあったことを思い出した。App Storeで「スマホ」と検索すると「スマホ依存対策」「スマホ時間制限」といったサジェストキーワードが出てきた。とりあえず検索して上位に来たアプリの点数が高かったので試してみることにした。こういうアプリを使い始めたら終わりだな、と思っていたのだがもうそんなことは言ってられない。本を読み、文章を書く時間を捻出するためである。しばらくやってみようと思う。

居心地の良さは耳から

心地よい居場所を日々探し求めておりますが、居心地の良さというのは何も空間だけとは限りません。たとえば音楽。自分にとって心地よい音楽や集中できる曲を聴けば、そこは特別な時空へと生まれ変わります。SONYウォークマンをリリースして以来、パーソナルな音響環境を身にまとえるようになったため、イヤホンあるいはヘッドフォンを装着すれば、即座に個人的な空間が生まれてくると言えます。

私も常にイヤホンを持ち歩いてます。カバンを取り替えた時などにうっかり家に置き忘れてしまうと不安になるほど、かなり依存しています。私は決して音響マニアなどではありませんが、どうせならそこそこいい音で聴きたいとは思っていて、多少いろんなイヤホンを買っては試してきました。(ちなみにヘッドフォンはしない派です。でかいので)

あるときからイヤホンのケーブル(線)がこんがらがるのがつらくなって、ワイヤレスに切り替えました。斜めがけのカバンを持ち歩くことも多いのですが、そうなるとケーブルがややこしいことになってしまい、さらに冬場でマフラーをしている時の「ひとり知恵の輪」みたいな状況に辟易していたので、ふと思い立ってAppleAirPodsに変えました。

これが結果的には良かった。まめに充電が必要だったり、ペアリングの切り替えが必要だったりはしますが、ケーブルの絡まりを意識せずに済むのがなんと気軽なことかと実感しました。

そんなある日、これまで一切興味のなかったノイズキャンセリングがふと気になり始めておりました。初めに申し上げた通り、心地よいパーソナル空間を構築する上で、イヤホンは極めて重要なファクターとなっていますが、特に私は電車で作業することが多いので、ノイズとの戦いという問題が常に生じています。電車の走行音はもちろんですが、特にうるさいのが車内アナウンス。なぜあんなに大きな音で何度もアナウンスする必要があるのか、特にJR。激しい曲の時はまだいいのですが、バラード系などの静かな曲やクラシックを聴きたいときはけっこう困ります。特にクラシックは音の振幅が大きいので、初めは静かだからと音量をめいっぱい上げていると途中からびっくりするくらい音が大きくなって慌てて音量を下げたり。また、落語やラジオ番組のようなトーク系がとにかく聞き取りづらい。

そこでノイズキャンセリングはどうかと思い、BOSEのイヤホンを買いました。本当はワイヤレスが良かったのですが、ワイヤレスといいつつも、医者が聴診器をかけているような感じで首から肩に変な(失礼)ものをかけないといけないため、これはビジュアル的に嫌だし持ち運びにも邪魔そうということで有線のものにしました。

ノイズキャンセリング機能はさすがにすごいもので、一瞬でまわりの雑踏が消えます。こんなに周りで音がしていたんだと気づくほどです(ただし声は聞こえる仕様なので、車内アナウンスがうるさいのは変わらずですが……)。おかげでピアノソナタを聴く頻度が増えました。以前はピアノソナタはとても聴いていられなかった。

そんなわけでBOSEは快適だったのですが、やはりケーブルがあるのが邪魔くさい。一度ワイヤレスの快楽を知ってしまったので、やはり線がややこしいのです。しかも初期不良だったのか私の使い方が悪かったのか、右側のイヤホンのある部分を触るとかなり大きな音でババッというノイズが出るようになってしまい、怖くて使いたくなくなってしまいました。ノイズキャンセリング機能付きなのに、イヤホン自体からノイズが出てくるなんて。修理に出せばいいのでしょうが、それも面倒くさくて、いつしかまたAirPodsに戻ってしまいました。

しかし、たまにはピアノソナタや落語をストレスなく聴きたい時もあるのです。そんなもやもやを抱えていたところ、ふとSONYが出しているノイズキャンセリング機能付きワイヤレスを見かけました。どうやらこれは変な聴診器のようなオブジェは付いてないようなのです。ユーザーレビューを見たところ、動画を見ると音ズレがひどいらしいのですが、いまのところ動画はあまり見ないのでこれはよしとして、早速購入することにしました。Amazonなら今朝注文して、本日中に届きます。さて、どうなることか。楽しみです。

コーヒーが好きだ

コーヒーが好きだ。毎日数杯は飲んでいる。いつの間にか癖になってしまった。飲むのはたいていホットのブラック。何も入れない。夏でもホットコーヒーを飲むようにしているが、暑すぎるときはアイスコーヒーに逃げる場合もある。

味にそこまで強いこだわりがあるわけではないが、何でもいいわけではない。まずいコーヒーなら飲まない方がましだとは思っている。スターバックスよりもタリーズを好む。缶コーヒーは基本的に飲まなかったが、タリーズの無糖が出てから買うようになった。それどころか毎朝、通勤電車に乗る前にタリーズの缶を買うのが日課になってしまった。始発電車に座るようにしているので、腰を下ろしてはほっと一息ついたところでタリーズの缶を飲むのが一日の始まりの合図となっている。タリーズの缶もホットが良いのだが、このごろ陽気が暖かくなってきたためホットがなくなってきてしまったのは残念だ。

会社にはネスプレッソがあるので飲んではいるが、実はあまり好きな味ではない。ネスカフェ・アンバサダーには申し訳ないと思うが、これは個人的嗜好の問題なので仕方がない。会社でおいしいコーヒーが飲めることはわりと重要なので良い方法を模索しようと思う。会社には湯沸かし器はないが、ウォーターサーバーから熱湯は出せるので、簡易ドリップ式のコーヒーを買うのが手軽で良さそうだ。早速検索したところ、どうやら自分の求めているものはドリップバッグコーヒーと言うそうだ。「コーヒー ドリップ おすすめ」と検索して上位にくる記事を何本か読んでみた。ちなみにこういう時って一刻も早く商品(アイテム)が知りたいから導入文はほぼ読まない。さっと目で撫でる程度である。それなのに中身のないコメントを長々と書く記事が多い。SEOを意識してのことなのかわからないが、いらぬ親切である。著者が何者か、どういうスタンスで商品をピックアップしているかがわかれば十分なのである。

とりあえず何本かの記事を読んでみる。KEY COFFEEとかマキシムとかUCCとかがおすすめされている。ちょっと違うんだよなと思ってさらに見ていると、macaroniの記事が猿田彦とかNOZY COFFEEとか丸山珈琲とかを紹介していた。そうそう、こういうのが知りたかったのよ。猿田彦の大吉ブレンド ドリップバッグだと1パック5枚入りで640円(税込691円)。さすがにしっかりしたお値段。でもドトールで買うよりも安いので、とりあえず試してみようかと思う。Amazonでも探してみたが、それほど気になるのも見つからなかったので猿田彦の大吉ブレンドドリップバッグ、20枚入りで2440円(税込2635円)というパックがあるのでそれを注文してみることにした。送料が648円かかってくるので合計3283円。決して安くはないが、おのれの快適な時間のための投資だと思ってまずはやってみることにする。

適正な文字量

編集者という仕事にいつしか携わって気がつけば10年以上は経っているので、そこそこいろんな原稿を手直ししてきた。いただいた原稿に対して、誤字・脱字などの適正化はもちろん、いかに読みやすく伝わりやすくするかの手直しや時には構成自体が変わる大手術を行うこともあるし、滅多にないがボツにせざるを得ないこともある。

私の役目はあくまでも補助的なものであり、書き手が持つ知見や経験、発想をよりおいしく消化しやすくするかにあるので、自分が何かを書くのとは決定的に異なる。編集者としてことばに関わっていると、本人も何かしら書けるのではないかと思われがちだが、全然違うのである。あくまでもアレンジャーなので作詞・作曲は別なのだ。

そんな自分がいざ文章をいちから書き起こそうとすると、すぐさま、はたと立ち止まってしまう。何も書くことがない。書きたいことなど何もないのだ。だったら書かなければいいのではないかと言われそうだが、そうはいかない事情もあるのだ。まずはネタ探しとばかりに、日常生活を送りつつ、頭の片隅でなんとなくテーマを考える。他愛もない、取るに足らない小話しか浮かんでこない。仕方ない。これが実力というものだ。

先人の知恵に頼ろうと、いくつかのエッセイ集に当たりをつけてみる。おもしろいけど他愛のないものもあれば、文体に圧倒され、こんなの参考にしてしまったらほんとに何も書けなくなるとおののくものもある。

いざ自分が書くという視点でエッセイを読むと、文字数が気になってくる。文字数によって展開のさせ方が変わってくるようだ。800字以内だと、1つのテーマでさらっといける。1200字だと、軽くひとひねり入れる必要が出てくる。2000字だと1つのエピソード(体験談)なんかを盛り込む必要も出てくる。このところ、いいなと思うエッセイを見つけるたび、文字数を数えてしまう。

そう考えながら、あまり文章を文字数で語ることってないなと思った。それぞれの目的に対して、果たして何文字が適性なのかという問題である。たとえば、初めて贈るラブレターや、とある街で無理心中があったことの報道、新型ボルボの試乗レビューなど、それぞれにちょうどいい文章量がありうるのかもしれない。

文字数を指定されるのって大学のレポート課題くらいしかなかったなとうっすら思い返していたが、そういえば小学校のときの原稿用紙が初めの体験であった。そのときは文字数という形式では表現されていなかったが、読書感想文は原稿用紙3枚、作文は原稿用紙5枚といったように、明確に文字量を規定されていた。たしかに原稿用紙に換算した方が感覚的にわかりやすい気もする。ただしそれも原稿用紙10枚くらいまでの話で、たまに小説なんかで「2000枚の大作!」とか言われてももはやどんくらいすごいのかわからない。この場合は、岩波文庫で何ページとでも表現されたほうがよくわかりそうだ。