基礎体温

思索の試作。嗜好の思考。

コーヒー一杯でも酔えるのです

公園には幼子を連れた若夫婦や愛犬と散歩する中年でいっぱいです。 みな幸せのかけらをおすそわけのようにこぼしていきます。 新緑の季節です。 足りないものも過剰なものもありません。 ぼくはというと、この生ぬるいそよ風に当たりながら 古ぼけたベンチでやけに小難しい本を読もうとしているのです。 孤独こそがおのれを鍛え上げるただ一つの手段であるかのように 書き記された言葉が手で触ることのできる物体であることに気づきながら こんな時はコーヒー一杯でも酔えるのです。

携帯の電源なんて切ってしまえ

単なる言い訳に過ぎないが、日々時間がないと思う。読みたい本・読まなければならない本、書きたいこと・書かなくてはならないことに比べて時間が圧倒的に足りない。もちろんこれが単なる言い訳に過ぎないことはよく理解している。読める人は多忙な中でも、いつ読んでいるのかと思うくらいたくさんの本を読んでいるからだ。

決して時間がないわけではない。時間の使い方は下手なだけである。では何に時間をとられているのかというとよくわからない。最近テレビもあまり見ておらず、録画した番組が溜まっていく一方だ。仕事以外で言うとこれといって思い当たるものがない気がする。飲み屋に行くことも一時期に比べてだいぶ減ったし。これでは何に使っているか分からないがお金が貯まらない人と同じである。

お金の場合、大きな買い物はしないけれど、ちょっとした出費や贅沢をこつこつと積み重ねていることが多い。一つ一つは小さな出費なので気にならないが、1ヶ月もすると数万円の差になっているというやつだ。

おそらく時間に関しても同様のことが言えるのではないか。そう考えると思い当たるのはスマートフォンしかあり得ない。正確に計測したことがないが、2、3分や5分くらいのメールチェックやSNSチェック、ニュースチェックを積み重ねると、おそらく毎日1~2時間くらいにはなっているのではないだろうか。もちろんそこから得られる情報も重要なことがあるので、一概に無駄な時間とばかりは言えないが、目的もなくスマホを見ることが常態化しているため、そりゃあ本も読まなくなるわ、という感じだ。

この気づきは今に始まったことではなく、これまで何度もくり返していることでもある。ダイエットと一緒で続けるのが困難なだけなのだ。

かつて思いあまってスマートフォンをやめようかと思ったこともあった。さすがに電話がないと不便なのでガラケーに戻そうかと思い、いろいろ調べたのだが、どうしても仕事上見ないといけないアプリもあって断念した。今ではガラケーそっくりスマートフォンも出ておりだいぶ気になって調べたことがあったが、実際のところどうなのだろう。でも結局、ガラケー時代を思い出すと、あの頃はあの頃でケータイばっかり見ていたので、ガラケーに戻すだけでは意味がなさそうだ。

こうなったら見る時間・タイミングを限定するしかなかろう。普段は電源を切った状態にして、見るタイミングだけささっとチェックしてまた電源を切る。電源を付けたり切ったりするのが面倒だが、そのくらいの荒療治もいいのではないか。テレビと一緒で、付けっぱなしだとだらだら見てしまうので、見たい番組だけ見たらスイッチを切ってしまうのだ。 とここまで考えて、そういえばこういう時のためのアプリがあったことを思い出した。App Storeで「スマホ」と検索すると「スマホ依存対策」「スマホ時間制限」といったサジェストキーワードが出てきた。とりあえず検索して上位に来たアプリの点数が高かったので試してみることにした。こういうアプリを使い始めたら終わりだな、と思っていたのだがもうそんなことは言ってられない。本を読み、文章を書く時間を捻出するためである。しばらくやってみようと思う。

家飲みの功罪

最近家で飲むことが好きになった。こう言うとどこかのハウスメーカーか家電メーカーのCMのようでいささか気持ち悪いが、事実、自宅で飲むことが増えた。

かつては家で飲むことはあまりなく、飲んでも週に一度缶ビール1本を飲む程度だった。私にとってお酒を飲む楽しさというのは、誰かと語り合う酒の場というのが愉しみであって、お酒そのものが純粋に好きというわけでもなかったので、家で飲むというのはあまり考えられなかった。ホームパーティーを催す度量があればまた話は別だろうが、そんな面倒なことをするくらいなら飲まない方がいいと思っていた。

もし自宅に石原さとみ井川遥のような飲み相手がいたら、事情は大いに違ってくるのかもしれないが、残念ながら我が家にお酒を飲める人間がいないため、もっぱらひとりで飲むことになる。

ではなぜ家で飲むようになったのか。

大体どこの会社にも、酒飲みの1人や2人はいて(実際はもっといるが)、酒好きたちはいつしかつるむようになる。私は酒の誘いは基本断らない主義なので、当然飲みに行く機会もたびたび発生する。

しかし、今の会社に転職して驚愕した。もともと人数の少ない会社とはいえ、お酒を飲めない・飲まない人ばかりだったのである。お酒を飲める・好きなのは私のほかは社長のみという恐ろしい環境になり、必然的にお店で飲む機会が減った。もちろん会社の同僚以外とも飲む機会はあるが、ふと帰りがけに「ちょっと飲んでく?」といった問いかけはほぼ皆無となってしまった。

さらに、今の会社に来てから、時代の流れというわけではないがなるべく残業はしないように心がけており、家に帰るのがこれまでよりも早くなったため、夜の時間に余裕が出てきたということもある。

そこで家でもちょこちょこお酒を飲み始めるようになるのだが、そうなると不思議なもので酒量は徐々に増えていく。以前は缶ビール1本で済ませていたが、もう1本もう1本と増えていき、酒の種類もホッピー、焼酎、日本酒、ウイスキーとバリエーションが出てきた。 もともと酒飲みである。飲み始めたら止まらないたちなので、だんだん歯止めが効かなくなってくる。お店と違って閉店や終電の心配もなければ追加料金の心配もないので、やめどきを見極めるのがより一層難しい。しかも酒の肴も自分が好きなものを買ってきたりつくったりするから、これがまた止まらない。飲めば食べたくなるし、食べれば飲みたくなる。地獄の無限ループである。

子供の頃、親戚のおじちゃんが毎晩焼酎を飲んでいるのをみて、何が楽しくて毎晩あんなガソリンみたいなのを飲んでいるのだろうと訝しく思っていたが、いまならあの気持ちがわかる。あれは生きることの楽しみであり、一日を終えるための儀式だったのだ。おじちゃんは毎晩ガソリンのような焼酎を飲みながら、何かを捧げていたのだ。

私は体のため生活のためを考えて、毎晩飲むことだけは避け、なるべく休肝日をつくるようにはしている。ひとり飲みの愉しみを知ってしまった今となっては、それが私にできるせめてもの抵抗である。

居心地の良さは耳から

心地よい居場所を日々探し求めておりますが、居心地の良さというのは何も空間だけとは限りません。たとえば音楽。自分にとって心地よい音楽や集中できる曲を聴けば、そこは特別な時空へと生まれ変わります。SONYウォークマンをリリースして以来、パーソナルな音響環境を身にまとえるようになったため、イヤホンあるいはヘッドフォンを装着すれば、即座に個人的な空間が生まれてくると言えます。

私も常にイヤホンを持ち歩いてます。カバンを取り替えた時などにうっかり家に置き忘れてしまうと不安になるほど、かなり依存しています。私は決して音響マニアなどではありませんが、どうせならそこそこいい音で聴きたいとは思っていて、多少いろんなイヤホンを買っては試してきました。(ちなみにヘッドフォンはしない派です。でかいので)

あるときからイヤホンのケーブル(線)がこんがらがるのがつらくなって、ワイヤレスに切り替えました。斜めがけのカバンを持ち歩くことも多いのですが、そうなるとケーブルがややこしいことになってしまい、さらに冬場でマフラーをしている時の「ひとり知恵の輪」みたいな状況に辟易していたので、ふと思い立ってAppleAirPodsに変えました。

これが結果的には良かった。まめに充電が必要だったり、ペアリングの切り替えが必要だったりはしますが、ケーブルの絡まりを意識せずに済むのがなんと気軽なことかと実感しました。

そんなある日、これまで一切興味のなかったノイズキャンセリングがふと気になり始めておりました。初めに申し上げた通り、心地よいパーソナル空間を構築する上で、イヤホンは極めて重要なファクターとなっていますが、特に私は電車で作業することが多いので、ノイズとの戦いという問題が常に生じています。電車の走行音はもちろんですが、特にうるさいのが車内アナウンス。なぜあんなに大きな音で何度もアナウンスする必要があるのか、特にJR。激しい曲の時はまだいいのですが、バラード系などの静かな曲やクラシックを聴きたいときはけっこう困ります。特にクラシックは音の振幅が大きいので、初めは静かだからと音量をめいっぱい上げていると途中からびっくりするくらい音が大きくなって慌てて音量を下げたり。また、落語やラジオ番組のようなトーク系がとにかく聞き取りづらい。

そこでノイズキャンセリングはどうかと思い、BOSEのイヤホンを買いました。本当はワイヤレスが良かったのですが、ワイヤレスといいつつも、医者が聴診器をかけているような感じで首から肩に変な(失礼)ものをかけないといけないため、これはビジュアル的に嫌だし持ち運びにも邪魔そうということで有線のものにしました。

ノイズキャンセリング機能はさすがにすごいもので、一瞬でまわりの雑踏が消えます。こんなに周りで音がしていたんだと気づくほどです(ただし声は聞こえる仕様なので、車内アナウンスがうるさいのは変わらずですが……)。おかげでピアノソナタを聴く頻度が増えました。以前はピアノソナタはとても聴いていられなかった。

そんなわけでBOSEは快適だったのですが、やはりケーブルがあるのが邪魔くさい。一度ワイヤレスの快楽を知ってしまったので、やはり線がややこしいのです。しかも初期不良だったのか私の使い方が悪かったのか、右側のイヤホンのある部分を触るとかなり大きな音でババッというノイズが出るようになってしまい、怖くて使いたくなくなってしまいました。ノイズキャンセリング機能付きなのに、イヤホン自体からノイズが出てくるなんて。修理に出せばいいのでしょうが、それも面倒くさくて、いつしかまたAirPodsに戻ってしまいました。

しかし、たまにはピアノソナタや落語をストレスなく聴きたい時もあるのです。そんなもやもやを抱えていたところ、ふとSONYが出しているノイズキャンセリング機能付きワイヤレスを見かけました。どうやらこれは変な聴診器のようなオブジェは付いてないようなのです。ユーザーレビューを見たところ、動画を見ると音ズレがひどいらしいのですが、いまのところ動画はあまり見ないのでこれはよしとして、早速購入することにしました。Amazonなら今朝注文して、本日中に届きます。さて、どうなることか。楽しみです。

コーヒーが好きだ

コーヒーが好きだ。毎日数杯は飲んでいる。いつの間にか癖になってしまった。飲むのはたいていホットのブラック。何も入れない。夏でもホットコーヒーを飲むようにしているが、暑すぎるときはアイスコーヒーに逃げる場合もある。

味にそこまで強いこだわりがあるわけではないが、何でもいいわけではない。まずいコーヒーなら飲まない方がましだとは思っている。スターバックスよりもタリーズを好む。缶コーヒーは基本的に飲まなかったが、タリーズの無糖が出てから買うようになった。それどころか毎朝、通勤電車に乗る前にタリーズの缶を買うのが日課になってしまった。始発電車に座るようにしているので、腰を下ろしてはほっと一息ついたところでタリーズの缶を飲むのが一日の始まりの合図となっている。タリーズの缶もホットが良いのだが、このごろ陽気が暖かくなってきたためホットがなくなってきてしまったのは残念だ。

会社にはネスプレッソがあるので飲んではいるが、実はあまり好きな味ではない。ネスカフェ・アンバサダーには申し訳ないと思うが、これは個人的嗜好の問題なので仕方がない。会社でおいしいコーヒーが飲めることはわりと重要なので良い方法を模索しようと思う。会社には湯沸かし器はないが、ウォーターサーバーから熱湯は出せるので、簡易ドリップ式のコーヒーを買うのが手軽で良さそうだ。早速検索したところ、どうやら自分の求めているものはドリップバッグコーヒーと言うそうだ。「コーヒー ドリップ おすすめ」と検索して上位にくる記事を何本か読んでみた。ちなみにこういう時って一刻も早く商品(アイテム)が知りたいから導入文はほぼ読まない。さっと目で撫でる程度である。それなのに中身のないコメントを長々と書く記事が多い。SEOを意識してのことなのかわからないが、いらぬ親切である。著者が何者か、どういうスタンスで商品をピックアップしているかがわかれば十分なのである。

とりあえず何本かの記事を読んでみる。KEY COFFEEとかマキシムとかUCCとかがおすすめされている。ちょっと違うんだよなと思ってさらに見ていると、macaroniの記事が猿田彦とかNOZY COFFEEとか丸山珈琲とかを紹介していた。そうそう、こういうのが知りたかったのよ。猿田彦の大吉ブレンド ドリップバッグだと1パック5枚入りで640円(税込691円)。さすがにしっかりしたお値段。でもドトールで買うよりも安いので、とりあえず試してみようかと思う。Amazonでも探してみたが、それほど気になるのも見つからなかったので猿田彦の大吉ブレンドドリップバッグ、20枚入りで2440円(税込2635円)というパックがあるのでそれを注文してみることにした。送料が648円かかってくるので合計3283円。決して安くはないが、おのれの快適な時間のための投資だと思ってまずはやってみることにする。

適正な文字量

編集者という仕事にいつしか携わって気がつけば10年以上は経っているので、そこそこいろんな原稿を手直ししてきた。いただいた原稿に対して、誤字・脱字などの適正化はもちろん、いかに読みやすく伝わりやすくするかの手直しや時には構成自体が変わる大手術を行うこともあるし、滅多にないがボツにせざるを得ないこともある。

私の役目はあくまでも補助的なものであり、書き手が持つ知見や経験、発想をよりおいしく消化しやすくするかにあるので、自分が何かを書くのとは決定的に異なる。編集者としてことばに関わっていると、本人も何かしら書けるのではないかと思われがちだが、全然違うのである。あくまでもアレンジャーなので作詞・作曲は別なのだ。

そんな自分がいざ文章をいちから書き起こそうとすると、すぐさま、はたと立ち止まってしまう。何も書くことがない。書きたいことなど何もないのだ。だったら書かなければいいのではないかと言われそうだが、そうはいかない事情もあるのだ。まずはネタ探しとばかりに、日常生活を送りつつ、頭の片隅でなんとなくテーマを考える。他愛もない、取るに足らない小話しか浮かんでこない。仕方ない。これが実力というものだ。

先人の知恵に頼ろうと、いくつかのエッセイ集に当たりをつけてみる。おもしろいけど他愛のないものもあれば、文体に圧倒され、こんなの参考にしてしまったらほんとに何も書けなくなるとおののくものもある。

いざ自分が書くという視点でエッセイを読むと、文字数が気になってくる。文字数によって展開のさせ方が変わってくるようだ。800字以内だと、1つのテーマでさらっといける。1200字だと、軽くひとひねり入れる必要が出てくる。2000字だと1つのエピソード(体験談)なんかを盛り込む必要も出てくる。このところ、いいなと思うエッセイを見つけるたび、文字数を数えてしまう。

そう考えながら、あまり文章を文字数で語ることってないなと思った。それぞれの目的に対して、果たして何文字が適性なのかという問題である。たとえば、初めて贈るラブレターや、とある街で無理心中があったことの報道、新型ボルボの試乗レビューなど、それぞれにちょうどいい文章量がありうるのかもしれない。

文字数を指定されるのって大学のレポート課題くらいしかなかったなとうっすら思い返していたが、そういえば小学校のときの原稿用紙が初めの体験であった。そのときは文字数という形式では表現されていなかったが、読書感想文は原稿用紙3枚、作文は原稿用紙5枚といったように、明確に文字量を規定されていた。たしかに原稿用紙に換算した方が感覚的にわかりやすい気もする。ただしそれも原稿用紙10枚くらいまでの話で、たまに小説なんかで「2000枚の大作!」とか言われてももはやどんくらいすごいのかわからない。この場合は、岩波文庫で何ページとでも表現されたほうがよくわかりそうだ。

余裕があるときの愉しみとしてゼルダを

余裕があるときの愉しみとしてゼルダを少しずつ進めている。目的もなくだらだらとこの世界を歩き回っているのが一番楽しいのだが、メインストーリーを進めないといけないという義務感にも駆られ、あまり気の乗らないダンジョン攻略へ向かってしまうのは、こうしたゲーム観で育ってしまったせいなのか。