基礎体温

思索の試作。嗜好の思考。

適正な文字量

編集者という仕事にいつしか携わって気がつけば10年以上は経っているので、そこそこいろんな原稿を手直ししてきた。いただいた原稿に対して、誤字・脱字などの適正化はもちろん、いかに読みやすく伝わりやすくするかの手直しや時には構成自体が変わる大手術を行うこともあるし、滅多にないがボツにせざるを得ないこともある。

私の役目はあくまでも補助的なものであり、書き手が持つ知見や経験、発想をよりおいしく消化しやすくするかにあるので、自分が何かを書くのとは決定的に異なる。編集者としてことばに関わっていると、本人も何かしら書けるのではないかと思われがちだが、全然違うのである。あくまでもアレンジャーなので作詞・作曲は別なのだ。

そんな自分がいざ文章をいちから書き起こそうとすると、すぐさま、はたと立ち止まってしまう。何も書くことがない。書きたいことなど何もないのだ。だったら書かなければいいのではないかと言われそうだが、そうはいかない事情もあるのだ。まずはネタ探しとばかりに、日常生活を送りつつ、頭の片隅でなんとなくテーマを考える。他愛もない、取るに足らない小話しか浮かんでこない。仕方ない。これが実力というものだ。

先人の知恵に頼ろうと、いくつかのエッセイ集に当たりをつけてみる。おもしろいけど他愛のないものもあれば、文体に圧倒され、こんなの参考にしてしまったらほんとに何も書けなくなるとおののくものもある。

いざ自分が書くという視点でエッセイを読むと、文字数が気になってくる。文字数によって展開のさせ方が変わってくるようだ。800字以内だと、1つのテーマでさらっといける。1200字だと、軽くひとひねり入れる必要が出てくる。2000字だと1つのエピソード(体験談)なんかを盛り込む必要も出てくる。このところ、いいなと思うエッセイを見つけるたび、文字数を数えてしまう。

そう考えながら、あまり文章を文字数で語ることってないなと思った。それぞれの目的に対して、果たして何文字が適性なのかという問題である。たとえば、初めて贈るラブレターや、とある街で無理心中があったことの報道、新型ボルボの試乗レビューなど、それぞれにちょうどいい文章量がありうるのかもしれない。

文字数を指定されるのって大学のレポート課題くらいしかなかったなとうっすら思い返していたが、そういえば小学校のときの原稿用紙が初めの体験であった。そのときは文字数という形式では表現されていなかったが、読書感想文は原稿用紙3枚、作文は原稿用紙5枚といったように、明確に文字量を規定されていた。たしかに原稿用紙に換算した方が感覚的にわかりやすい気もする。ただしそれも原稿用紙10枚くらいまでの話で、たまに小説なんかで「2000枚の大作!」とか言われてももはやどんくらいすごいのかわからない。この場合は、岩波文庫で何ページとでも表現されたほうがよくわかりそうだ。

余裕があるときの愉しみとしてゼルダを

余裕があるときの愉しみとしてゼルダを少しずつ進めている。目的もなくだらだらとこの世界を歩き回っているのが一番楽しいのだが、メインストーリーを進めないといけないという義務感にも駆られ、あまり気の乗らないダンジョン攻略へ向かってしまうのは、こうしたゲーム観で育ってしまったせいなのか。

曜日でやることを決める

毎週日曜の11時にプールに行くのが日課となっている。行く曜日と時刻を決めたことで習慣化することに成功しつつある。カントほど厳密にやる必要はないだろうが、あらかじめ曜日や時間を決めておくことで楽になることは案外たくさんある気がする。

あるベテランスタイリストの本を読んでなるほどなと思ったことがある。毎日のコーディネートを決める際にまずは靴から選ぶのが良いそうだ。たしかに出かける間際になって靴が合わないとなったことは幾度となくある。そこで曜日によって履く靴を決めておくことにした。こうすることでその日何を着るかが決めやすくなるはずだ。幸い普段履く靴は7足くらいなのでちょうどいい。帰宅して靴を脱いだときに次の日の靴に差し替えておけば朝に慌てる心配もない。

明日からお弁当を作る必要があるのだがそれも曜日で献立を決めておこうかと考えている。毎回創意工夫を楽しめるほど料理好きではないので、曜日ごとに決めておけば考える手間が省けるし事前の準備も楽になるはずである。日本はおかずの種類が極めて豊富なのでいろんなものを作らないといけないような強迫観念に駆られるが、毎週同じでも実は十分ではないか。

あと曜日によって決めたいのがインプットの時間。私にとっては映画を見たりコンサートに行ったり展覧会を観たり。夜に行けるところは限られているけど曜日を決めて見に行かないとなかなか見に行かないし、お酒を飲んで過ごしてしまいそうなのでこれも曜日を決めたい。木曜に設定することにする。でも仕事帰りに行けるのって森美術館くらいかしら。

ほかにも通勤時の過ごし方や仕事の進め方なども曜日によって予定を組み込んでみることにする。どうなることやら。

ナベさんのこと。

かつて、前々職のときにナベさんという人とひょんなことから新サイトをつくることになった。ナベさんというのは、中途で入ってきた人で 、どんな人なのか、何をやってきたのかわからなかったが、とにかくアホみたいな顔をしていて、わかりやすく言うと赤塚不二夫のマンガに出てきそうな風体の人だった。見た目だけじゃなくキャラも赤塚ワールドで、油断するとすぐにうんこちんこといったことを口走るような人で、私より幾分年上だったのだが私は全然嫌いじゃなくて、なぜか一緒に飲んで安っぽいキャバクラに行ったこともあった。

彼とのなんの仕事をしたかというと、いつの間にか新サイトを立ち上げることになっていて、いつの間にか私がその企画責任者みたいになっていて、なんだかんだ進めていたのだが、今思うとほんと何にも考えてなくて、そもそもサイトを構築すること自体を理解していなかったので、決めなければいけないことも見えていない状態のまま、とにかくリリース日が近づいていた。

今考えても恐ろしいが、明日リリース日だというのに今思うと詳細の仕様が固まっていない状況で進んでいき、何も見えてない私はもうサイトができるのを待つばかりと思っていたのだが、夜に近づくにつれ、あれはどうなっている?これはどうしましょうか?などと疑問点が続々と出てきて、外注のエンジニアさんに一つ一つ考えては返答していたのだが、そこにアホづらのナベさんが現れて、様々な要件を一つ一つ整理してはつぶしていくのを目の当たりにした。あんな赤塚顔で、いつもうんこちんこばかり言っていたナベさんのおかげで、複雑にみえた要件が整理され、次々解決されていくのは圧巻であった。そこには、幾多の修羅場をくぐってきた者の凄みがあった。

明け方にようやくすべてが完了し、新サイトがオープンすることになったが、私にはなんの喜びも達成感もなかった。敗北感にすら達しない不甲斐なさがじんわりと胸に残った。

そのあとも、私は新サイト、新サービスをいくつも立ち上げた。その度に、そして今でも、事前に要件を定め、あらゆる挙動や可能性に答えを用意しておくことの重要性をナベさんの姿から教わった経験が生きている。あれからナベさんは会社を辞め、私も辞めた。あるとき、中目黒の大衆酒場であいかわらずのアホづらで飲んでいる彼の姿を遠目で見かけ、密かに感謝の祈りを捧げた。

持ち歩きデバイスが定まらない

通勤電車に乗る時間が長いので、なるべく座れるようにして、そこで仕事をしたり本を読んだりするようにしている。そこで持ち歩くのがMacBookiPadキーボード付き、ポメラなのだがこの3つを持ち歩くのはさすがにヘビーなので、1つか2つを選ぶことになるがこれが毎回ちょっと悩ましい。

MacBookが仕事の作業には便利だが、やや重い。電車で膝の上で開くと若干存在感が強い。

iPadは純正キーボードの接触が悪くなってきたのがストレス。Apple Pencilが使えるので手書きで考えたいときは便利。dマガジンで雑誌を読めるのも良い。ただし、Googleスプレッドシートとの相性が超悪いのが仕事をする上では致命的。

ポメラはストイックに文章を書きたい、書かないといけないときはやはり重宝する。膝の上で開いても圧迫感がないのが良い。当然ながらテキスト作成以外はできないので単独だと心許ない。

というわけで一長一短あるので、この中から気分ややりたい仕事に合わせて選んでいるのだが、毎回考えたり、やりくりしたりするのがだんだん面倒になってきたのでそろそろスタイルを固めたいとは思っている。

iPadGoogleスプレッドシートがストレスなく使えるようになれば、解決するような気はしている。アプリの恒常的な不具合はなんとかならないものだろうか。

欲しいものなど何もない

春先になると服が欲しくなる。とはいえ必要な服などほとんどない。靴下が破れそうになってきたからそろそろ買い換えねばとは思うものの。生活するに必要なものなど、40年も生きていれば足りている。あとは飲食など、消費するものがあるばかりだ。音楽は聴くが、Apple MusicなのでCDはすっかり買わない。DVDも。本は買うが、すでに一生かかっても読み切れない数が家にある。iPhoneも、画面を割ってしまったがXにそそられないので9のままでいい。カメラを買い換えようかとも考えたが、本格的なものはいかんせん高い。それだけの価値判断が今の自分にはできないので、どれを買うべきかわからない。

欲望に振り回されないのは良いことかもしれないが、とりわけ解脱したような境地にいるわけでもない。物ではなく、自己研鑽にでも向かうべきなのだろう。それならばやりたいことは山ほどある。なのについついゼルダをやってしまうのは、己の未熟さなのか、それほどやりたいと思っていないせいなのか。おそらく後者であろう。

やりたいといいながら実際には何も手を付けていないものの1つがフランス語。学生時代に多少かじったこともあるし、何より語の響きは好きなので、なんとかもう少し華麗に使いこなせればと思うが、特に必要性はなく、もっぱら趣味の範疇にとどまるのでさしたる拘束力はない。だが、仕事上の必要性などとは別に、何かをストイックに極めたいという思いがあることも確かなので、フランス語が良いのかはわからないが、何かしらの「自己研鑽」を始めようと思う。

消費されてはいけない

カバンを代えてからポメラを持ち歩く頻度が減り、気がつけば少なくとも2週間以上は開いてなかった。すっかり親指シフトを忘れてしまっているのではないかと恐れたが、幸いなことにわりと覚えてはいたのでなんとか感覚を取り戻せそうだ。

ポメラを使わなくなっての一番の変化は、こうして文章を書かなくなることだ。ポメラ以外の時はMacbookiPadを持ち歩いているが、そうなるとやはりメールやらSlackやら何かしら仕事めいた作業をしてしまうか、さほど重要性の高くないサイトを眺めてしまいがちだ。こうした「横道」にそれてしまうことなく文章生成にフォーカスできるのがポメラの売りであるわけだが、見事にそこにはまっていると言える。

こうしてみるといかに日常で思考し、それをアウトプットする時間を持つことが難しいことかと感じる。いとも簡単に消費に流されてしまうことか。毎日ブログを書く人って偉いなと思う。どんな内容であるにせよ。

ShortNoteというサービスが終了するとの知らせが来た。採算性がとれないのが理由らしい。いろいろとコラボ企画などもやっていたようだが、思うようにマネタイズできなかったのかもしれない。

私もいっときこのサービスを使っていた。ちょうどブログを始めようと思っていたときで、なぜいつもブログが続かないのかと考えたときに、制約がないのがむしろ難易度を上げているのではないかと思い、文字数を制限したらどうかと考えていたところだった。ブログの文字数を毎回たとえば400字に設定することで書き続けられるのではないかと考え、短い文章に向いたフォーマットを探していたときにShortNoteを見つけて使ってみたわけである。 スマホでも書きやすいし、書けばわりと他の人からのリアクション(はてなでいうスターのようなもの)もあるのでしばらくは続けていた。

いつしか続けなくなったのは、ひとえに私の怠慢によるところが大きいが、積み重ねていったときの閲覧性やSEO的な利点の弱さが他のブログサービスとの差になってしまった気もする。SNSのように流れていくものを求めるか、ブログのようにストックされるものを志向するかの違い。そこが、こうして私がはてなブログに結局は戻ってきた大きな要因ではないかと思う。